かつて世界はもっと鮮やかで、驚きと発見に満ちていたはずだ。しかし、現代に生きる私たちは、なぜか日々を退屈に感じることが多くなっている。情報は氾濫し、技術は進化し続けているのに、なぜ世界は「つまらなく」なってしまったのだろうか?
アートと解釈の自由
アートの本質は、鑑賞者に委ねられた解釈の自由にある。絵画や音楽、文学は、受け取る人によって意味が変わるからこそ価値がある。
しかしこれが、アートに対して「正しい解釈」を求めすぎるようになるとどうなるだろうか?
たとえば、美術館に行くと作品の横には詳しい解説がついている。それは作品の背景はおろか作者がどういう状況で何を描いたというのが一から十まで書いてある。あり得そうな話ではあるがアートの世界ではこういう事象は起こっていない、なぜか?
それはこうした作品の解釈が、鑑賞者の自由な想像を制限してしまうからだ。
アートに限らず、現代社会は「意味の過剰供給」によって、私たちの驚きや発見の余地を奪っているのではないか。何もかもが解説され、レビューされ、評価されることで、私たちは「考えなくてもいい」状態に慣れてしまった。自分で解釈し、感じる余白がなくなれば、世界は当然つまらなく感じられる。
仏教的視点から見る「つまらなさ」
仏教は、非常に論理的な体系を持つ思想であり、原因と結果を重視する点で現代の科学的な考え方とも通じる。たとえば、苦しみには必ず原因があり、それを取り除くことで解決できるという教えは、科学的な問題解決のアプローチに似ている。
仏教の最終的な目的は「自我の消滅」にある。仏教における苦しみの根源は執着であり、私たちが世界に対して「こうあるべきだ」と固執することが苦悩を生み出すと説く。そのため、悟りとは執着を手放し、自己という概念を超越することにある。
つまり、仏教を極めるということは、最終的には「自己を消し去る」こと、すなわち「生きることからの解放=死」に行き着く。執着をすべて手放した先には、生と死の区別すらなくなり、ただ無へと帰結する。これは究極的には「すべてを知ることが、何も感じなくなることと同義である」という現代の退屈さとも通じるものがあるのではないか。
ソシャゲとマイナーゲームの違い
この現象は、ゲームの楽しみ方にも現れている。たとえば、ソーシャルゲーム(ソシャゲ)は攻略情報が豊富に出回り、効率的なプレイ方法が確立されていることが多い。その結果、プレイヤーは情報を参考に最適解を選び、決められたルートをなぞるだけになりがちだ。
一方で、マイナーなゲームや情報が少ないゲームは、攻略情報がなく、プレイヤー自身が試行錯誤するしかない。その分、自分で発見する楽しみがあり、深く没頭できることが多い。情報があふれることでゲームの楽しみ方がパターン化され、驚きや発見の余地が削がれてしまうのは、まさに現代社会全体のつまらなさとも通じる。
つまらなさの根源:すべてが解説されてしまっている
結局のところ、世界のありとあらゆることが解説されてしまっていることが、つまらなさの根源なのではないだろうか。わからないことを自分で考え、試行錯誤する余地がなくなってしまえば、新しい発見の楽しさもなくなってしまう。かつては謎や未知のものに対する探求心が私たちを突き動かしていた。しかし、今では検索すればすぐに答えが見つかり、誰かが用意した「正解」に従うだけになってしまった。
つまらなさを克服するには?
では、世界を再び面白くするにはどうすればいいのか?
- 意味を求めすぎない すべてのものに意味や価値を求めるのではなく、ただそれを体験することに集中する。仏教が説く「無執着」の姿勢を持つことで、世界の見え方が変わるかもしれない。
- 解釈の自由を取り戻す アートに限らず、情報を受け取る際に「正解」を求めすぎず、自分の解釈を大切にする。何かを感じたら、それが正しいのだと信じることが大切だ。
- 情報の消費を減らす 私たちは毎日膨大な情報に晒されているが、その多くは単なるノイズだ。意識的に情報を制限し、じっくりと一つのものに向き合う時間を作ることで、世界は新鮮なものに感じられるかもしれない。
- 攻略情報のない世界を楽しむ ゲームに限らず、あえて攻略情報やレビューを見ずに何かを体験してみる。手探りで進めることで、本来の発見の楽しさを取り戻すことができる。
- 未知の体験を大切にする 旅行やアート、ゲームなど、未知のものに触れる機会を増やすことで、新しい刺激を得られる。現代の人たちが新しいコンテンツが出るとすぐに飛びつくのも未知のものに飢えている表れなのかもしれない。
- 個人的な体験を増やすどれだけ情報があふれても、自分自身の体験には自分の解釈しかつけようがない。個人的な体験を重ねることで、「他人の意味づけされた世界」ではなく、「自分だけの世界」を作っていくことができる。
まとめ
世界がつまらなくなっているのは、世界が変わったのではなく、私たちの周囲のものが意味や解釈づけられたもので埋まってしまっているからではないだろうか。他人によって作られた意味や解釈を手放し、もう一度「ただそこにあるもの」を見つめ直すことが、世界を再び面白くする鍵なのかもしれない。